天理教 愛町分教会 愛春布教所

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 斬り結ぶ 刃の下も身を捨ててこそ 浮かぶせもあれ

 

梅雨もようやく明けて、伊豆にも暑い夏が訪れてまいりました。
この季節になりますと、私は母である愛春の初代所長のことをいつも思い出します。
それはあるおたすけのお話でございます。

 

ある年の夏の日のこと、母は、暑さにもめげず朝から灼熱の太陽がじりじりと照り付ける沼津の町を、体をおおう日傘もなく、洗いざらしの日本手ぬぐいを姉さんかぶりにかぶって、手作りの粗末な手提げにおたすけ羽織を入れて、いつもと変わらずあるお宅におたすけに歩いて出かけさせていただきました。
その姿は人さんから見て、なんとも奇異な感じであったことと思います。
その時、たまたまあるお店の中から、母の女学校時代の学友が見ていたそうです。その方は「遠藤さん、この暑い中をどこへゆくの」と声をかけようと思われたそうですが、粗末な母の出で立ちの中から、なんともいえないおかしがたい気品のようなものがそこはかとなく滲み出ているように感じられて、思わず息をのんだと、後になってその時のことを私に教えてくださいました。

 

その日、母は、我が家から歩いて一時間はゆうにかかりましょうか、愛鷹山の山麓の村におたすけにまいるところでした。
先方のご婦人は、終戦後、満州国(現在の中国吉林省)から命からがらまったくの着の身着のままでご主人と五歳になったばかりの長女を連れて、引き上げ船に乗り、日本に帰ってまいった方でした。住む家もないのですから、家内の実家にしばらく居候をしておりましたが、主人がある日、「俺も男だ。いつまでも世話になっているわけにはいかない。一旗あげて必ずお前たちを迎えにくる」と言って、家を出ましたが、気の毒にも今日になるまで行方が分からないままで、大変困っているということでした。その方にお道の匂いがかかりまして、母はほとんど毎日のようにおたすけにうかがっておりました。時には、ご本人も母のところへ神様のお話をうかがいにみえておられたのですが、ここ二.三日お会いしないので、なんとなく心にかかりまして、その方がお世話になっているご実家の家へおたすけに出かけたのでございますが、そこには思いもかけないことが母を待ち構えておりました。
門を入りまして、続いてお玄関に向かいましたが、その玄関では、ご実家のご両親と跡取りのご夫婦が慌ただしく出てまいりまして、手を広げて母に向かってとうせんぼうをしたということでした。
それでも母は家の中に入れていただこうといたしますと、父親が「入るな!!」と大声をあげ、母の胸のあたりを両手で押しやりましたので、母はひとたまりもありません。そのままダッーと前を向いたまま後ずさりをし、その拍子に地べたに尻餅をついてしまいましたが、誰一人手をかして起こしてくれる人もなく、頭の上から「もう二度とこないでくれ!遠藤さん、あんたが天理教天理教というてあまり熱心にすすめるもんだから、娘は可哀相に気が狂ってしまった。気違いになった」とわめき立てられたそうです。
家族の話によれば、世間体が悪いから、さっそく座敷牢を作って、今はそこに入れてあるとのお話でした。
母は、せめておさづけだけでもかけさせてくださいと一生懸命お願いをしましたが、とんでもないということで、病人に会わせていただくこともできないまま、とぼとぼ肩を落として我が家に戻ってまいりました。

 

それから悶々とした日がしばらく続く中に、お教会の月次祭が近付いてきたある日のこと、三女の妹(当時十九歳くらいであったと思います)が、「こんなことをしていたら、あのおばさんの気違いも治らない。そして、武子姉さんの病気も治らない。お母さん、あとは私がなんとかするから、お教会に出かけてください」と言うてくれたそうです。
半世紀を過ぎた今日になって、当時を思い返しますと、あの時の妹の言葉は、神様が、初代会長様が、どうでも遠藤家を助けたいために妹の口を通して助かる道を教えてくださったと思うのでございます。
「そうか、お教会へいってもいいかい。大丈夫かい。では後は頼むよ」と母はわずかのお金を残して、あるだけのお金を持って、お教会の月次祭に出掛けさせていただきました。
この時、次女である妹の武子は、今晩にも命が亡くなっても不思議ではないという重い身上(病気)をいただいて病の床にふせっておりました。そして家の中はお金もない、食べるものもない、まったく何もないという、ないない尽くしの状態の時でございました。
母は、「祭典をすませたら夜行で必ず帰ってくるから」というて、お教会へでかけたのでございます。
実は、お医者様からとてもこれ以上の自宅療養は無理ということで、祭典の翌日の十三日には、いやおうなく病院に入院させられる手筈になっていました。
お教会へまいりますと、会う人ごとに、「遠藤さん、それでもその中をよう来なすったね」と心配して声をかけてくださいました。そうして、「祭典が終わったら、はよう帰らせてもらったほうがいいよ」と言うてくださる人もあれば、「遠藤さん帰ってはいけないよ。しばらく教会においてもらいなさい。」と言うてくださる先生もいらっしゃいましたが、皆さんが私どものことを心配してくださることには変わりはないのです。
しかしながら、家に帰るべきか、教会に留まるべきか、最後には母自身が決めることでした。そして、この時の母の脳裏に浮かんでまいりましたことは、信仰のはじまりに初代会長様が「お前さんたちは沼津からこの教会にくるまでには何千という教会を通り越してやってきた。神様がこの教会ならこの会長なら必ず助けてもらえるだろうとして、神様が連れてきてくださった。また私も何とかしてお前さんたちを助けてあげたい、お前さんたちも助かりたいとしてここまでやってきた。自分たちで来たのではない。神様がどうでも助けたいために連れてきてくださったとしたら、これからは誰のいうことも聞かなくてもよい。神様と私のいうことを聞いて通ればいいのだよ。いいかえ。わかったかえ」と仰せくださったお言葉でした。信仰の始めに遠藤家に賜ったいついつまでも忘れることのできない珠玉のお言葉でございました。
会長様であったならば、この場合どうなさるのであろうか。そうだ、会長様は「遠藤、帰ってどうするんだい。病人の傍に心配してついていたからというて、助からないものは助からない」とおっしゃるに違いない。だとしたら、そうだ、私は帰らないでお教会にしばらくおいていただいて、少しでも遠藤家の悪因縁を消させていただく道に進ませていただこうと、この時、母の心は固く定まったのでございます。
私は、その時すでに教会に入り込みをさせていただいており、母とともに神殿で神様にお願い込みをさせていただきました。

その頃、時を同じくして、神殿の御普請が始まっていたのでございます。
日は流れ、普請のお手伝いをさせていただきながらお教会においていただいているうちに、二度目の月次祭がまいりまして、沼津からTさんという信者さんがお参拝にみえました。
Tさんは「遠藤さん」と声をかけてくださいまして、母が武子の身上を心配してたずねますと、「悪いけれど、武子さんは今のところ良くもならないが、悪くもならない病状だよ。けれども不思議なことがあってね、貴女が教会へきてから、何だか知らないが、気が狂ったNさんの気違いが治ってしまったよ。御守護をいただいたんだよ」と教えてくださいました。
母は神様、会長様のすばらしい御守護がありがたくて嬉しくて、感動の涙が胸の中から溢れてきたそうです。

 

Tさんからうかがったお話を書かせていただきますと、その村では当時、養豚業が盛んであったそうで、生まれてきた子豚は三ヶ月もいたしますと、一匹に対して三千円くらいになり、農家にとっては大変いい収入源になっていたそうでございます。
生まれた子豚が踏まれたりしてまあ二、三匹死んでしまったとしても、決して損をすることはない。Nさんのお宅でも、三ヶ月経ったらいくらになると、そろばんをはじいて、家中が喜んでいたとのことでございます。
しかしながらある晩のこと、その子豚がギャーギャーギャーギャーあまりにも異様に鳴くものですから、夜の明けるのを待って獣医にきていただいて診ていただいたところ、人間でいうなれば、気違いになったということでした。
子豚が突然気が狂ってしまった。家族はびっくりして、「へえ〜、豚でも気が狂うもんですか」と言うた時、座敷牢に入れられていたNさんがハッと本性に立ち返り、「私はどうしてこんなところに入っているの」と母親に尋ねたそうです。本人はこれまでのことは何も覚えがなかったのです。
気が狂った子豚については売り物にはなりませんので、ころして土の中に埋めまして、世にいう「とらぬ狸の皮算用」になり、大変な損をしてしまいました。

その後、御守護をいただかれたNさんは、家族の反対の中をも一生懸命お道を続けて信仰させていただきました。
そうこういたしております中に、結婚のお話がありまして、相手の方は初婚で、こちらは再婚で子供が一人あることも知っておりましたが、子供を実家の親元へおいてくるのはかわいそうだとその男性が申されまして、子連れで再婚をされました。
主人になる方は、お道の信仰のない方でしたが、御家内の変わらぬ信仰の姿に神様が働いてくださいまして、やがてお道を聞いてくださるようになり、夫婦そろっての信仰に進むことができました。

 

初代会長様は常々、「僕は教会を決して動かない。それは、私をたよって遠方からきてくださる方々が、私がいないとがっかりするだろう。それでは神様にも申し訳ない。皆さんにもすまんことになるので、教会に座っていてどこにも動かないけれども、ここに座っていて『会長様』と誠真実に願う者には、何千里何万里隔てた遠方の信者さんでも、近くにいる者と変わらず、あるいはそれ以上に、なんでもたすかってゆく理を運んであげるよ」と仰せられていらっしゃいましたが、まさにNさんはその通りの御守護をいただかれたのでございます。
また会長様は、「私は、可哀相な人には涙を流さないが、誠の人には涙がでる」と仰せくださったことがございました。
Nさんはやがてご主人との間に男の子と女の子と二人の子供さんまでいただかれました。そして年限が経ちまして、そのご主人も長寿をまっとうされ、家族に見守られ静かに息を引き取られまして、誠に見事な出直しをされました。
当のNさんは、ただいま九十歳をこえる高齢となりましたが、今なお健在で、三人の子供たちもそれぞれ家庭を持たせていただき、ただいまは子供夫婦や大勢の孫に囲まれて、人間としてとても幸せな日々を送られております。
初代会長様に教えていただいたように、天理教の“天”という字を聞かせていただいたなら、ボツボツとこつこつと、飽きないように腰をつかないように、それは命のある限りという信仰を曲がりなりにも守って通られたということは、幸せは年限が立って忘れた頃に頂ける、生きていて良かった、このようなけっこうな日がくるとは思わなかった、本当に神様は初代会長様は嘘を言われなかったと、しみじみと思われて、ありがたいという感謝の心で日々を過ごしておられます。

さてお話は変わりますが、私の家族が妹の武子の身上によってそれから通らせていただきました長い長い道中のお話は、初代会長様にいただきましたお言葉を交えて、また尊いお仕込みとともにこれから月を追ってホームページに書かせていただきます。
「日々に心つくするものだねは いつになりてもかわりめがない」というお言葉が、今わたしの胸に切々として湧いてまいります。誠にありがたいことでございます。

 

 

※本文中に、適切ではない言葉を使用している場合がございますが、お言葉等の意味合いが変わってしまうため、そのまま掲載をさせていただいております。ご了承ください。

 

 

 

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