天理教 愛町分教会 愛春布教所

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日々の心の運びの中にたすかる道がある

 


このお道の信仰は、神様から天理天則にそった通り方を教えていただいていると聞かせていただいております。
天理教の信仰をしていれば人間の道をいい加減に通っていいというものではないのでして、むしろお道の信仰をさせていただいているからこそ、正しく真実に、教えていただいた人間の道を、通れても通れなくても、通る努力をさせていただかねばなりません。
社会の方から見ていただいて、なるほど、たいしたものだ、あれでこそ信仰をしている人だと、褒めていただくのが当たり前であって、あれでも天理教か!信仰していると言えるのか!とそしられるようなことがありましたなら、それこそ私どもは、信仰させていただいているつもりが、知らず知らずの中にお道の中にあってお道の反対(逆)をしていることになってしまいます。
「道を聞いて道を通らん者ほど 神は憎い者はない」というお言葉がございます。初代会長様は、「道を聞いていて、何故助からないのか。その時は、“道を反対して通った時のおわび”をしなさい」と、いつもお諭しくださいました。

『道の反対』とは、通らねばならん道を、自分の勝手で通らないことを申します。


初代会長様はいつも、「この教会の門をくぐって、助からん者は一人もいない。助かって当たり前で、むしろ助からんほうが不思議な教会だよ」とおっしゃいました。また時には、「僕は皆を助けられないよ。皆さんがどうして通ったら助かるのか分からないから、お話をさせていただいているのだから、助かりたかったら、私の話をただ“ああ、そういうものか”と聞いているだけではいけないよ。そこで聞かせていただいた神様のお話を、全部覚えて帰って即実行しなさいと、そういうむつかしい事を私は言うているのではないのだよ。そんなことは、皆さんにはできないことは、誰よりも私が一番よく知っている。ではどうしたらよいのか。むつかしい道は、教祖(おやさま)とこの僕が、長数年の長い道の中にみな通らせていただいたから、お前さんたちは、私の『万分の一の真似事の信仰』をしてくれたらいいのだよ。では、その『万分の一の真似事の信仰』とは、いかような信仰であろうか。“そんなむつかしいことはとてもできない”と放り出してしまったら、口では助かりたい助かりたいと言っていながら、やっている事は“助からなくても結構ですよ”と駄々をこねているのと同じになってしまいます。心の向きを変えて、前向きの姿勢になって、聞かせていただいたお話の一つでも二つでも覚えて帰って、日常生活に実行させていただこうと努力をさせていただく、それが私の『万分の一の信仰の真似』をしていることなのだよ」と、教えてくださいました。

 


ところで、初代会長様は、物に対して恩を感じられて、またその恩を返す道をお通りになられることが大変お上手なお方でございました。
その一つをお話させていただきますと、初代会長様は必ず、朝夕の神床でのお勤めの後は、参拝された信者さんに、神様のお話をお取り次ぎしてくださったのですが、その際、入込者の女さんが、会長様にお話用のお湯をお出しするのが常でございました。
このお湯のことについて、会長様はこうお話をされたことがございます。
「毎日、皆が私にお話のお湯を出してくれるけれども、うっかりしていると、皆は、徳を積むどころか因縁を積んでいることもある。私はここに座っていて、運んでくれたお湯を“どうもありがとう”“ああ、おいしいね”“こうやって持ってきてくれるから、私はお話をさせていただくことができる、ありがとうよ”と、声を出して礼をいわないけれど、心の中では、持ってきてくれた者に対して礼を言っている。つまり、私は座っていて、持ってきてくれた人に対して礼を言うて、徳を積んでいるのだよ。ところが、お湯を入れて私の前に運んでくれて、うっかりしていると徳を積むどころか、心の運び方によっては、反対に因縁を積んでいる者もある。それはどういうことか分かりやすく言えば、一杯のお湯にしても、『今日はちょっと寒いから熱めにさせていただこう』また『今日はちょっとぬるめにさせていただこう』とか、いろいろに心を使って、喜んでいただこうと御用をさせていただいたなら徳が積めよう。ところが『時間がない』また『面倒くさい』という心を使って僕の前に出た時は、うやうやしく持ってきてくれても、その運んだ心は、神様と自分が知っている。体を動かして、忙しい思いをして、その人間は因縁を積んでしまっている。つまるところ、『表で徳を積んで 裏で毒を積んでいる』ということになってしまって、これじゃつまらないではないか。それを私はいつも皆に言うて、教えてあげているのだよ。いったいお前さんたちは、いつになったら天理教をやるんだえ。僕は天理教をさせていただいているよ。なるほど、私のために一生懸命働いていてくれる。そのくらい社会で働いたら、使ってくださる御主人がずいぶんと喜んでくださるだろう。しかしながら教会はただ働くところではない、理につとめるところだ。僕は神様という理につとめている。お前さんたちも、分かっても分からなくても、なるほどそういうものかと素直な心になって、その心をお受けさせていただいて、しっかり徳を積ませていただきなさい。魂に徳が積めてくると、私の言っていることがよくわかるようになるよ」と、お諭しくださいました。

また、初代会長様は、お話が終わり神殿からおひけになる際は「僕は奥へひけるがもう用はないかえ」というお言葉をおかけくださいまして、冬であれば、火鉢の火に灰をかけられ、またお湯飲みにフタをされ、神殿から奥におひけになられました。
この件について、初代会長様は、ある時、奥におひけになられてから、こうお話をしてくださったことがございました。
「私は、いろいろ口には出さないけれども、火に灰をかぶせるのは、『火よ、ありがとう。こうしてお前さんがあたたかくしてくれるから、今日もいいお話をさせていただくことができました。どうもありがとう』と言うて、火に礼を言うて灰をかぶせているのだよ。またお湯飲みにフタをかぶせて、下げる者が下げやすいところに置き換えるのは、喜べても喜べなくとも僕のところまで運んでくれたという理に対して、またその湯飲みに対して、『今日もこうしてお話ができてありがとう』とお礼を言うているのだよ。こうして通らせていただいているとね、さあどこかへ出掛けようかなと私が心で思うと、黙っていても、玄関に履き物を揃えて、いってらっしゃいませと言うて見送ってくれる人がいる。お前さん、これが天理教だよ。僕はね、この力を早く皆におぼえてもらいたいと思って、皆の顔さえ見れば一生懸命お話をさせていただいているのだから、僕の心がわかったら、日々しっかり心を入れて通っておくれ」と仰せられました。

もう一つお話をさせていただきましょう。
【スリッパのお話】
初代会長様のお傍には、常に御用をお手伝いさせていただく者がおりましたが、だからというて、会長様は、やりっぱなし使いっぱなしということは決してなさいませんでした。

奥にお戻りになられて、スリッパを脱ぎっぱなしにしてお部屋にお入りになられても誰も何も申しませんが、私が急いでスリッパの向きを直させていただくまでもなく、初代会長様はご自分でスリッパの向きをかえて、お部屋にお入りくださいました。そして、またすぐお廊下に出られる時でも、まず向きをかえてお入りになられるのでした。
私どもでしたら、またすぐ廊下に出るのだからまあいいや!というところですが、初代会長様は、決してそういうことはなさいませんでした。
また、ある時のことでございますが、私が初代会長様のスリッパをお部屋の真ん中の位置に置かせていただいておりましたところ、初代会長様からご注意をいただきました。
教会で一番偉いお方ですから、真ん中に置くのが当たり前のことと思っておりましたが、初代会長様はこのことにつきまして、「そこへ置いてはいけないよ。皆が部屋の出入りに邪魔になるだろう」と仰せくださいまして、お部屋のすみに寄せられたのでございます。
スリッパのことだけではございません。初代会長様は、朝目を覚まされて夜お休みになられる四六時中、一時が万事、神様と一つ一つ心の中でお話申し上げては、お通りになられておりました。

このスリッパのお話ですが、あるお宅の信徒祭に行かせていただきました際、このお話をさせていただいたことがございました。
そして、それから一年ほど経ちまして、また同じお宅へうかがいました際、その家のご主人が、私にこうお話くださいました。
ご主人は、スリッパを揃えることなら自分にもできると思われて、それから毎日実行をさせていただいたそうでございます。またその中に、自分のスリッパだけではなく、だんだんと家族のスリッパも喜んで揃えられるようになったそうです。そういたしましたら、お家の中が今までと違い、大変明るくなってまいりまして、またそれだけではなく、今一つというところがうまくいかなかったお商売が、最近大変よい順序をいただいており、この不況の時代にも日々結構にお連れ通りいただいておりますと、とても嬉しいお話を聞かせていただきました。


スリッパくらいで・・と思われる方もありましょうが、『いいと思ったらすぐに行え 考えていると日が暮れるよ』というお言葉がございます。
“待てよ”と考えると、私どもはもう因縁に負けてしまって実行に移すことができなくなってしまいます。

私どもは、初代会長様から助かる道を教えていただいております。迷わず助かる道に進ませていただくことができるのには、徳がないといけません。初代会長様が「あまった体、あまった事情があったら、自分の勝手なことに使うのは後に回して、まずもって先に神様の御用をさせてもらいなさい。そうして通らせていただくことが、私の『万分の一の真似事の信仰』であり、それで助かってゆけば結構ではないか」と仰せくださいました。このお言葉は、時代がどのように変わろうとも、末代に残る珠玉のお言葉でございます。

最後になりましたが、もうひとつお話を書き記させていただきます。

初代会長様は、外へお出かけになる際、お教会の正面玄関の中心には、決してご自分のお履き物を置かれませんでした。
ある時、正面に会長様のお履き物を揃えさせていただこうといたしましたところ、会長様は、ご注意をくださいました。
「そこへ、置いてはいけないよ。教祖(おやさま)が毎朝お教会にお入り込みくださり、また夕方にはおぢばにお帰りくださる。その教祖(おやさま)のお履き物を置かせていただく大切な場所なのだよ」と――――。

 

 

  

 

 

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