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初代会長様から頂いたご褒美

 

新たな年を迎えさせていただきまして、可もなく不可もなくまた健康においていただいておりますことの有り難さを、改めて親神様の御守護と感謝をさせていただいております。
今年も、「このすばらしい神様のお話を全国世界の方々に、一人でも多くの方々に聞いていただきたい」と仰せくださいました初代会長様のお言葉を胸において、精一杯つとめさせていただきたいと切に念じているところでございます。
 
さて、先日、初代会長様の御命日にあたる1月22日、愛町分教会にて、初代会長様の四十年祭が、盛大に滞りなく執行されました。
約一万人以上の理の子供たちが参集し、一人ひとりが胸の中で、初代会長様との思い出に一日中ひたっていたことでしょう。
私も、40年前の1月16日〜22日、初代会長様が熱海のお別荘にお越しになられてからお出直しになられるまでの一週間の出来事を、昨日のことのように思い出しておりました。

 

いずれまた近い将来、その時の初代会長様の御様子を書かせていただく日もありましょうが、今日は、その中の一つを書かせていただきます。
 
ちょうど四十年前の1月16日の朝、奥の女さんから、「先生、熱海の梅まつりはいつからですか?」とお尋ねがありましたので、「たしか、1月15日から3月の末までと思いましたが…」と申し上げ、さっそく会長室へまいりました。

そして初代会長様に、「会長様、熱海の信者がお待ち申し上げておりますので、どうぞ熱海のお別荘(現記念館)にお出かけくださいませ」と申し上げますと、会長様からは「そうかい、信者が待っていてくれるなら、出掛けようかね」とお言葉がございましたので、私はお迎えのお仕度のため、熱海出張所(後の愛春布教所)に急いで戻りました。
そうして、お迎えの準備を整えまして、皆でお待ち申し上げた次第でございますが、今思い返してみますと、この時の初代会長様の別荘へのお出掛けはいつもと様子が異なっており、たいへん大勢のお客様とご一緒にお入り込みをなされました。

 

実は、この1月16日の日には、大森町の大教会長様が、米寿のお祝いのお品を愛町のお教会にお届けくださっておられました。初代会長様はさっそく大教会長様がお祝いくださいました赤いお着物に赤い羽織をお召しになられ、赤い座布団にお座りになって、お写真をお撮りになられたそうでございます。

(このお写真こそが、初代会長様がこの世におられた最後のお姿のお写真となったのでございます)
そうして初代会長様は、「私はこれから熱海へ出掛けるが、皆さんもいきましょう」とお声をかけられまして、皆様も「ご一緒させていただきましょう」ということになり、大教会長様の他に大勢の御婦人の先生もお供され、それはもうにぎやかにお別荘にお入り込みくださいました。

そして、会長様を囲まれお夕食を召し上がられたのですが、誰彼ともなく、「会長様、私は昔こんなお仕込みをいただきましたね」とお話申し上げると、「そんなことがあったね」とお話は昔に戻り、話に花が咲いて、夕食のお席は大変盛り上がってまいりました。


そうこうしております中に、会長様は時計をご覧になられ、「もうこんな時間になってしまったよ。遅くなるといけないから、早うお帰りなさい」とおっしゃいましたので、それを機会に皆さんもお帰りになることになりました。

そして、「もう寒いですから、お玄関で」と皆様がご挨拶をなされましたが、会長様は園路を通られて、御門の外までお見送りにお出になりました。皆様もなぜか名残惜し気に100メートルくらいあるだらだら坂を何度も立ち止まっては振り返って、ご挨拶をされておりました。その都度会長様は、手まねで「早くゆきなさいよ、早く早く」とおっしゃっておられました。その時のお姿が昨日の出来事のように胸に浮かんでまいります。
今にして思い起こせば、これが会長様と皆様とのこの世における最後のお別れになったのでございます。
 
その後、会長様は、熱海にお入り込みくださってからの毎日、朝食をすまされると、「さあ出掛けようかね」とおっしゃられ、お車でお出かけになられました。それは今までにないことでございましたので、親奥様が理由をお尋ねになられました。すると会長様は、「熱海には遠藤の母親がおって、一生懸命おたすけをしてくれている。私は、その信者がどんな信仰をしているか見て歩く責任があるからね」と仰せくださいました。

 

1月19日のこと、親奥様が、お子様の豊治先生の出張所(現愛豊布教所)の祭典に東京にお出かけになられましたので、私どもは、お留守番をさせていただく中に、何か会長様にお喜びいただけることがないだろうかと思いまして、当時九歳だった娘の勝美に、「なにか歌を歌って会長様にお喜びいただきなさい」と申しました。

 

そのようなわけで、その夜、会長様お一人でお夕食をすまされました後、会長様にお願いをいたしまして、次の間にみかん箱を置き、その上に白い布をかぶせて、にわか仕立ての舞台を作らせていただきました。
手前どもの出張所から5分くらいのところにお別荘があったわけですが、その夜道を勝美は男の信者さんの背中におぶわれてうかがわせていただきました。
そうしてその時代の流行歌であった『夕月』という歌と、その他に二、三曲、歌い手さんの特徴をつかみ身振り手ぶりをまじえながら、真剣に歌わせていただきました。会長様からは「お前さんは、顔もきれいだし、姿もいい。声もいい。私をこんなに喜ばせてくれたのだから、そのお礼に、今にね、立派な芸人にしてあげるよ」というけっこうなお言葉を頂戴いたしました。
子供ながらも何とかして会長様によろこんでいただこうという一生懸命の心がこのようなけっこうなお言葉をいただけたのだと思わせていただきます。
 
 
さて、それから月日の経つのは早いもので、実に四十年という歳月が流れまして、ちょうど今年の1月19日という日は、ある分教会の奥様の告別式の日でございました。
この奥様と勝美は歳もほぼ同じ、子供の数もお互い四人と同じで、長年友達のように親しくお付き合いをさせていただいておりましたが、奥様はこのたび身上をいただき、まだ四十代という若さで、会長様やお子さんたちを遺し、志半ばで出直しをなされたのでございます。

私は勝美に「今日はあの奥様の告別式じゃないよ。勝美、あなたのお別れの日だったのよ」と話しました。
『見る因縁』と聞かせていただきますが、まったく同じ立場・境遇にいる娘は、まさにない命を神様、初代会長様につないでいただいたのだと思わせていただきます。
人の悲しみを見て、わが身が助かったことをよろこぶわけでは決してございませんが、四十年前に九歳の子供が、子供なりに会長様の前で一生懸命に歌わせていただいたその心を神様会長様はお汲み取りくださいまして、四十年経った今日、このようなかたちで、『見る因縁』『聞く因縁』としてお連れ通りくださったのだと思います。

初代会長様は常々、「さあ僕と一緒に道を通ろう。もし食べられなかったら教会へおいで。一椀のご飯を半分に分け合ってでも一緒に道を通ろう」と仰せくださいました。

会長様は、その人の立場の高い・低いでもなく、また人柄の良い・悪いでもなく、また男・女、大人・子供の区別なく、「道を通る人」を求められたのでございます。
親子ともどもに感謝を申し上げるとともに、この不思議なお働きに対する喜びの心を忘れないように、これから初代会長様五十年祭にむかって、会長様に教えていただきましたとおり、ぼつぼつとこつこつと飽きないように腰をつかないように命のある限りという信仰を、これからもさせていただきたいと切に念じる次第でございます。

 

 

 

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