物の恩を忘れない

 

 このお道の信仰は、天理教だ、宗教だ、と言っているけれども、そんな軽いもんではないよとおっしゃった。単なる拝み頼みの祈祷(きとう)信仰ではないと。

お道の信仰をさせていただいて、いつまでたっても貧乏していてはいけないと。九尺二間の長屋住まいをしている者でも、このお道の信仰をさせていただいて、やがては司(つかさ)の暮らしになるということをおっしゃいました。

それには、ただお話を聞いたから良いというもんではない。聞かせていただいたら、それを耳の右から左へ流してしまわないで、ぐーっとのみ込んで、お腹の中に入れなさいとおっしゃった。

そうすると、忘れたように思いましても、必要に応じて神様が、それそれ、あのときに聞かせておいただろう、あの話をもってここは通れば大丈夫だよと教えてくださるとおっしゃった。

教えていただいたとおり通らせてもらったらどんな難しい問題でも解決をしていくんだよと、こんなふうに教えていただきました。

 

お道を聞かせていただいたら、なおまた、社会の人からご覧いただいて、なるほどなあ、あれが天理教か、さすが偉いもんやなあと、お道のない社会の方が、感心をしていただくような通り方をするんだよとおっしゃった。

あれでも天理教か、あんなことをしていいのかと、社会の人から言われるようなことは断じてあってはいけないよと、このように教えていただいております。

 

初代の会長様はね、私どもにいつもね、物を大切にすることは、教えていただいておりましたね。

それはもったいないからケチで物を大事にするんじゃない。

かたちは同じように見えても、その作ってくださった人のご恩、自分の手に入るまでどれだけ大勢の人の手を経て自分の手に入ってくるか分かりません。お金を出して買ったから自分のものと、そんな簡単なものじゃないよと。

そこに込められた大勢の人の誠真実を受け取らせていただくんだよとおっしゃいました。

ですから、使ったものは、必ず心の中で、どうもありがとう、お前さんがあったから助かったよと言ってですね、その品物に対してお礼を申し上げて、元の場所に収めさせていただく。

こうすると、後から行った方が、どこにいってしまったんだろう?ないけど、どうしたんだろう?といってですね、探すことがないと。

それを、もしも置くべき所に置かない、いい加減な所へ置いといて、後から行った人に探させたということは、朝から晩まで、てんつくてんつく、一生懸命働かせていただいても、それは働いたというだけで、徳になっていないんだよとおっしゃった。

人に探させただけ因縁を積んでるだろうとおっしゃいました。

 

普請中のことでございましたけれども、「いつもお前さんたちは、夜遅くまで寝られないから、今日は早くお休み」と、こんなふうに会長様がおっしゃってくださって、夕勤めの後、お話をくださいまして、奥にお引けになりました。

ああ、ありがたいね、今日は、ああいうお言葉が出たから、早く休ませていただこうと、いつもよりはちょっと早めに休ませていただきますと、夜中に起こされます。

「起きろーーー!!」というわけですね。

何事が始まったのかと思って、「どこそこに集まれ!!全員集合―――!!」というわけですね。

そうして集まりますと、この普請の使ったお道具1本、鎌か何かだと思いますけれども、置くべき所に戻っていないというわけなんです。みんな探せと。

まあ社会でいったら、そんなものは明日でもいいじゃないかというところでございますけれども、教会はそういうことは許されません。

もうみんなね、寒いなかを、ぶるぶる震えながら、あちらこちらと、あてどもないところを探して歩く。

まあ二〜三時間も探して歩いて、やっと使いっぱなしにしてあったのが分かって、戻ってまいりました。

もう戻ってきたからいい、寝なさいといったって、昔のことですから、ホカロンがあるわけじゃございません。電気ゴタツを使っているわけでもございませんから、ぶるぶるぶるぶる震えながら、お布団の中に入ったって寝られない、寒くて。明け方までぶるぶるぶるぶる震えて、夜の明けるのを待った覚えもございます。

 

なぜ、そういうことをしてまで仕込まれるのかというと、つまり、使った品物に対してありがとうと、元の場所に収めるということは、ありがとうと言ってそのご恩を返すわけですね。

使ってそこらへほったらかしておいたら、恩が返せない。

ですから、一生懸命働いてはいますよ。けれども、神様からご覧になると、働いていない。

お道では、はたはたを楽々にすると、こう聞かせていただきますけれども、はたはたを楽々にするということは、どういうことかというと、今申し上げたようにね、「あっ!あれを使おう!」と思って後から行った方が、あるべき所にない、そして、あちらこちらと探させる。

これが違ってるというんです。

つまり、行いが足りないわけですね。

この行いが足りないということは、そこだけの問題じゃない。

やがてお互いが、一本立ちになって立たせていただいたときに、足りないものができてくる。

お金が足りない、物が足りない、人が足りない。

そのうちに、自分の命まで足りないことになってしまう。

そんなことになってはいけませんから、会長様はこんなことぐらいという些細なことでも、断じてお許しにならない。見逃すことはございませんでした。

 

物を大切にするということは、それは、もったいないから、また無くなっちゃうと買わんならんでと、そういうことではなくして、その品物に対して、どうもありがとうと言って、恩を返すことを教えていただきます。

それが先へいってね、会長様がおっしゃったように、このお道の信仰をさせていただいていると、お金の入り用なときにはお金、物の入り用なときには物、人の入り用なときには人を、神様がいろんな人に入り組んでお与えくださる。

 

1円お金の入り用なときに、1円足りなくっても困るだろうと、こうおっしゃる。

人を集めるといっても、お金で集まってくるもんじゃございません。

その人の徳によって集められてくるわけですからね。

それも一年も半年も前じゃないよ、三日前のご守護とおっしゃいました。そうだろうと、要らんときにあっても邪魔だろうと。入り用なときに、入り用なだけあればいいじゃないか。これが、このお道でいうところの金持ちだそうでございます。

 

以上

 

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