天理教 愛町分教会

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猛火の中を助けられて(後編)

 

 「昨日までの遠藤を捨てて、今日から天理教の遠藤になるということは、まずこの土地を本家に差し上げることです」と大野先生はおっしゃいました。母は「先生、それでは私どもはどこへ行けばよろしいのですか」とお尋ねをしますと、「ここを出て、目鼻のつくまで、あなたの実家へ身を寄せるのです。つまり居候をさせていただきなさい」とおっしゃいました。

母は顔色を変えて「先生それはできません!私は死んでもできません!出世をして故郷に錦を飾るならいざ知らず、焼け出されて、物乞い同然に落ちぶれて帰ることなど絶対にできません!」と申しました。すると先生は「遠藤さん、そこのところをこれから天理教の遠藤になりなさいと申しているのです。ずいぶんとお道を聞かせていただいて、形の上では低くなったように見えますが、神様からご覧いただいたらまだまだ高い。そのような高い気分や気癖を使っていたら、先々通るに通れん日がくると、神様会長様は先を見抜き見通されて、今から助かる道をお通しくださるのです。「見えん中からいうておく。それが見えたらこれが神やで。神の言うこと千に一つの違いない。これ疑って後悔なきよにせよ」と教えていただいているではありませんか」とおっしゃいました。

 

私は、初代会長様が以前におっしゃっていたお言葉を思い出しました。

 

ある雨の日のこと、会長様は、縁側にお立ちになり庭を眺められながら「よく見てごらん。降った雨水は、高いところから低いところをよって流れてゆくだろう。そうして水は、低いところに水たまりを作る。水はお金――、人間は低くなるとお金に困らなくなるよ。お金が貯まってくると物が寄ってくる。そして人が集まってくる。僕をごらん。現在この教会には全国に数万の信者さんがいるけれども、そのなかで、僕ほど低い、柔らかい人間はいないだろう。今、私はお金の中に埋まっている。物は溢れている。私はここに座っていて、こういう人が来てくれるといいなあと思っていると、立派な会社をやめてまで「会長さん、僕を使ってください」というて、教会のために一生懸命働いてくれる。お前さん、これが天理教だよ。また、“火の中は火柱となり、水の中は水柱となって、神は簑となり傘となり連れて通ろう”とおっしゃっているではないか。道の者は、神様をお目標(めどう)に、朝目が覚めて夜休ませていただく中に、ただひたすら誠心誠意通らせていただくことが誠に大切なことである」と教えてくださいました。

 

先生と母は、夜の更けるのも忘れてお話のやり取りをしておりました。そして「先生、分かりました。会長様のおっしゃる通りにさせていただきます」と、母は堅い決意のもとにご返事を申し上げたのでございます。

昔、お道に入れていただいて間もない頃、沼津のこの土地について、大野先生を通して会長様にお伺いしたことがありました。その時会長様は、「その土地は因縁の土地だから、ほしいと思うな。ほしいと思わなくとも、これから先、神様を重んじて僕を尊敬して通っていたら、やがて年限が経って忘れた頃、この土地の何層倍もの地所の上に、門構えの立派なお屋敷に、大勢の人を使って通れる身分にしてあげるよ」とお言葉をいただいておりまして、この会長様からいただいた御理を実行に移させていただく時旬がようやくまいったのだと、その時思いました。

 

夜星をあおいで、終夜の長いねりあいは終わりました。気がついた時、皆、夜露で体がしっとりと濡れておりました。

やがて、東の空が明るくなってまいりまして、太陽が焼け跡に昇り始めました。大野先生は「会長様のお言葉とは申せ、大変難しいことを聞いてくださり、定めていただいて、本当にありがとうございました。私はこれから他の信者さんのお宅を見て廻り、ご心配くださってお待ちになっている会長様に一刻も早くお伝えをさせていただくため、教会に戻ります」と言葉を残され、一睡もなさることなくお立ちになりました。

 

翌日(七月十八日)、母とともに、取るものも取りあえず、まず本家に伺いました。

 

本家の住まいは焼失していましたが、倉が焼けずに残っておりました。

 

本家の皆さんの前で、母の堅い決心を伝えさせていただいたところ、跡取りの従兄弟が「叔母さん、市役所に申し入れを行うと、簡易住宅を建ててくれます。私どももそのつもりでいました。田舎へ身を寄せなくとも、あの場所に簡易住宅を建てて、一先ずそこに住んでください」と言われましたが、母は「心配してくださる温かいお心は、涙が出るほど嬉しく思いますが、これから先、女ばかりでは誠に無用心ですから、一先ず私の実家にお世話になりたいと思います。なお、土地を差し上げたからには、先々どんな立場になりましても、こうしてくれ、ああしてくれということは口が裂けても断じて申しませんので、どうぞ安心をしてください」ときっぱりと申し上げたのでございます。

 

七月十九日には、母の生家から、親戚が私どもの安否を案じて、馬力を引いて訪ねてくれました。母の生家は富士山の裾野、茶畑というところにありますから、沼津までくるのに、たぶん半日はかかったと思います。親戚の人達は、沼津が空襲にあった、おそらく、生きてはいないだろうけれど、せめて骨だけでも拾って帰ろう。ただ、運よく生きていたらとわずかな願いをこめ、当時、命の次に大切な米やらうどんやらたくさんの食料品を山のように積んで駆け付けてくれたのです。

その食料品は、焼け跡に戻ってこられて野宿をされていた隣組の皆さんに分けて差し上げました。

そして、親戚の皆さんは、焼け残った防空壕の中の品々を馬力に乗せ、また茶畑まで馬力を引いて戻ってくださいました。私どもはもう再び会うこともないであろう隣組の皆さんとお名残を惜しみつつ、一足先に汽車に乗って茶畑へと向かいました。

 

母の実家では、いろいろな事情から、住まうところは文古倉となりました。隣は味噌部屋です。いうまでもなくランプの灯だけが頼りで、畳は母屋の座敷から剥がしてきて入れてくださいました。炊事は、倉の前に釜戸を据えてはくださいましたが、屋根もなく、雨が降れば傘をさしての食事作りでした。

 

ところが、神様のおためしはまだありました。

沼津で同じように焼け出された、養子である伯父の弟さん家族が私どもより先にきていたのですが、その家族は二階の二間続きのお座敷を使っていたのです。神様には低くなってどんな中もしばらく通らせていただきますとお定めをし、お受け取りいただいております。神様は「さあどうだ、これでもか、これでもか」と日々にいろいろな形をもって、私どもの定めが確かなものかをお試しをくださったのです。

 

ある時、疎開先へ大野先生のお姉様がおたすけにきてくださいましたが、昼間からお話をいただいていると、農家の方は遊んでいるように思うのですね。養子の伯父が大きな風呂敷包みを抱え、車座になってお話をいただいている私どものところへきて「こんなもの邪魔くさくてどうもならん!そうれ」というて、私どもの荷物を投げるようにして置いていったのです。

 

母もわざわざ遠方からおたすけにきてくださった先生に対し、申し訳ないという気持ちで言葉もありませんでした。

しかし、先生は明るい声で「まあ遠藤さん、いいじゃないですか。“お染、久松、倉住まい”と歌の文句にもあるように、なんともオツなもんじゃありませんか」とおっしゃって、「遠藤さん、何にも人間で難しいことを考えることはないんですよ。道の者がおたすけにきた時に、こういうことが起こるというのは、神様が教えてくださっているのですよ。どんな中も低くなって通らせていただいて、これでまた一つ前生のおそろしい因縁を切らせていただきました、神様ありがとうございますと喜んで通らせていただいているとね、丸裸になった貴女方が、今に先へいって、荷物で身動きもならないほど物の中に埋まって通る結構な日がくることを神様が教えてくださったのだから、喜ぶんですよ。さあ笑顔になって喜びましょう」とお話をしてくださいました。その時、私どもは思わず泣き笑いをしたことを、昨日のことのように思い出します。

 

 

こうして日々を通らせていただいていたある日のこと、大きな蛇が、倉の前にあるキンモクセイの木を登ったり降りたりして、人がいてもなかなか逃げていこうとしないのです。

 

それを見た母が「何かあるに違いない。何か神様が教えてくださっている。お前さん、教会へ飛んでいって、理をいただいてくれ」と言い、私はさっそく教会へ飛んでいきました(なお、話が後になりましたが、私たちはこの母の実家において、昭和天皇の玉音放送をラジオの臨時ニュースで聞かせていただきまして、大東亜戦争が終結したことを知ったのです)

 

教会に飛んだと申しましたが、当時は客車に乗りきれず、屋根の上や先頭の機関車にまで人が溢れる光景が日常的に見られた時代ですから、遠距離の切符は、沼津駅では一時間に百枚しか発売しておらず、購入するためには、長い行列にならばなくてはなりませんでした。そして、お教会にはいつも夜行列車に乗ってまいりましたが、客車の通路にまで新聞紙を引いて座っている人でいっぱいで、あふれた人はデッキに何時間も立ちっぱなしという状態でした。

会長様はいつも「お道を聞かせていただいたら、なるべく苦労をさせてもらいなさい。難儀をさせてもらいなさい。僕は苦労があるとありがたいと思った。難儀が出てくるとしめたと思って手を打って喜んだよ」とおっしゃっておられました。これがお道の苦労というものなのかな、ありがたい事やなあと思って、沼津から名古屋まで立ちっぱなしという状態でお教会に運ばせていただいた日もございました。

 

さて、朝勤めに間に合うことができまして、おつとめ後に会長様におうかがいをさせていただきましたところ、「近いうちに変わったことが起きるよ。何かあったらまたおいでよ」というお言葉を頂戴いたしまして、その日は夕方までひのきしんをさせていただき、また夜行列車に乗って帰らせていただきました。

 

そして、それからしばらくして、沼津に戻られた知人から、早く茶畑から沼津に貴女方も戻っていらっしゃいという再三のお話がありました。母は、これが会長様がおっしゃっていた変わった出来事かと思い、会長様にお伺いしてくるようにということで、私は再びお教会に運ばせていただきました。

 

すると会長様は「沼津へ帰りなさい。沼津へ戻ったなら、やがてそこから道は八方に広がるよ。神様と僕がついているから大丈夫だよ。安心して沼津に帰りなさい」というお言葉をくださったのでございます。

 

世上は、戦争が終わり、昭和天皇が人間宣言をされ、権力は軍部からマッカーサーへと移り、軍事色は一掃されましたが、庶民については、まだ住む家もなく、食料も乏しく、闇市と買い出しが日常の風景でした。あれもこれも人間思案をしたら、一寸も前に進むこともできません。家族が真剣に何回となく話し合いをさせていただき、最後は母がきっぱり決めてくれました。頂戴いたしました会長様のお言葉を目標(めどう)に、どんな中もこれから命懸けで通らせていただきますと、家族一同が一つの心になり、心が定まりました。そして、幸いなことに、住まわせていただくアパートの御守護もいただいたのです。

この時、母の実家に疎開をさせていただいてから半年が経っておりました。

 

自分に通りにくい道を、また喜べない道を、喜びに変える努力をさせていただいて、「また一つ前生の因縁を消させていただきました、ありがとうございました」と神様会長様に御礼を申し上げることが、私どもの先々のたすかりに繋がっていくのだということを教えていただきました。お世話になった母の実家の方々に、争い合うこともなくして、心から御礼が申し上げられ、また皆さんから温かいお言葉をいただいてお別れすることができたのは、母も私もお道を聞かせていただいたお陰です。因縁を積むところを積まないで、反対に、少しでも徳を積ませていただくことができたのでございます。

 

今、年を重ね、時空を超えて、駆け抜けてきた六十二年を静かに振り返った時、因縁に負けることなく、因縁を追いかけ、勝つ道を教えてお連れ通りくださいました会長様の海よりも深く、山よりも高いご高恩のほど、身にしみてありがたく尊く思わせていただいております。

また、すばらしい母の信仰に育まれていった私どもの幸せをしみじみと思わせていただいております。

 

ここを原点として、これからお道の信仰がだんだんと神様の思惑のところに進められてゆくのでございます。

 

 

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