定めて、成る(2)
それから三年ほど経ちまして、私の妹の武子が、重い身上をいただくことになりました。もうどんどん病気は悪化していった。ですけれども、お医者さんの薬をいただいたり、注射をされると、もう七転八倒に苦しむんだそうです。ですからもう薬いらない、注射いらない、お医者さんいい。母のおさづけと、神様のお下がりのお水。神様のお下がりのお水というても、石油箱に白い布(きれ)をかけまして、そこに小さなお三方に、お水玉がのっている神様です。そのお水と母のおさづけ、また、最寄りにおられる信者さん方のおさづけをいただくことになる。でもだんだんだんだん病気は悪化してまいりました。
私は一度も家に帰っておりません。会長様が、お前なあ、ちょっと帰って見舞っておやりとおっしゃらないもの、会長様お願いしますということは、口が横に裂けてもお願いできません。申し上げられない。その当時の入り込み者は皆、親が死んでも家には帰りませんという、こういう心定めのもとに教会に入れていただいた。だから人伝に聞かせていただくお話で、おたすけに行ってくださった方から聞かせていただくお話です。
腎臓の重病でございますから、いわゆるポンプが壊れちゃっているから、お水を汲み出してもお水が出てこないのと同じで、身体全体にお水が充満したんですから、おたすけに行かれた先生のお話では、髪の毛なんてもう一本も無い。熱でみんな抜けちゃう。顔の頬に指を押し込むと、もう人差し指の半分以上がズブーッと入ってしまうくらい水ぶくれで、こうやってやぶれてく。身体中がやぶれる。ズワズワズワズワ水が出てくる。
頂けるものは、氷のぶっかけしか入らなくなった。それでも胃に溜まってくると、ブワーッと、ちょうど鯨が潮を噴くように、ブワーッと噴き出すんだそうです。顔や手もこんなにパンパンに膨れ上がっているでしょう。そして、このまぶたがですよ、上まぶたがこのくらい(握り拳一つ分ほど)に膨らんで、ぶらーんと下がってくる。「武子や」って言うと、こうやって(ぶら下がったまぶたを上に持ち上げて)開けなきゃ目が見えない。そのうちに、「お母さん、なんだかもう目が見えなくなってきた」と言われたときには、母も、会長様は必ず助けてあげるとおっしゃってくださった。
「遠藤の母親が、煎餅下駄履いてボロを着て、あの沼津の土地で、天理教聞いてください、愛町分教会のお話を聞いてください。関根豊松会長様は、死んだ者でも生き返るというて、生き返らせてくださる不思議な力を持った方です。聞いてくださいと言うて、沼津の町を、おにをいがけ、おたすけをしてくれている。その誠真実に対して、僕は、この子はもう既に命のない者であるけれども、この子を断じて殺すことはできない。私の七十年の信仰に免じて助けてもらいたい。神様にお願いをしているんだよ。だからお前さんたちも、断じてああもうダメだ、もう助からないということは、心の中に微塵も思ってはいけないよ」と仰せくださいました。これはね皆さん、とても難しいことなんです。ふっと心に、ああおっしゃるけど大丈夫かなあという心がわいて、ああ思っちゃいけない…思っちゃいけない…。私は会長様の御用をさせていただく中に、心の中で常にみかぐらうたを唱えながら御用をさせていただきました。
人間ですから思う。けれども、助からないと思ったら、助かる妹を殺してしまう。私には‘思わない’ということしか今できない。会長様は必ず助けてくださるという信念の元に、もうダメということは微塵も心には思わない、これしか私にはできなかった。
そうして、会長様が夜中にお目覚めになって、神殿の方を向かれてお願いをしてくださったということも、私は親奥様から伺っております。「遠藤さん、頑張んなさいや。会長様もこうしてお願いをしてくださっているんだよ。頑張んなさいや」
そうした中に母が、もう12日のお教会の祭典がくる。行きたい。行きたいけど、お金が無い。お金はなんとか工面しても、この重病の患者を置いて、面倒を診てくれていた、のちに東京へ嫁に行った当時17歳か18歳のいちばん末の妹に、お金も与えてあげられない、食べる物も無いのに、教会に自分だけ行って、行きたいけど、はあ…どうしようと悩んでいた。
そのときに末の妹が、手先が器用な子でした。しばらく洋裁に行っていたときがありますから、それで内職に洋裁をして皆さんの物を作らせていただいていた。
「(頼まれた品物が)まだ出来上がらないけど、もう二〜三日で出来上がります。ちょっとお金が入り用ですから、先に代金を頂きたい」と言ってお客さんにお願いをしてくれて、母の旅費を作ってくれた。こんなこと皆さん言えますか。でもお金が無いんだから、そうして母の旅費を作った。
母も分かっていたけど、「そうか!行っていいか!大丈夫か?」「大丈夫よ、お母さん。お母さんが教会行かなかったら、お姉さんは死んでしまう。後はなんとかするから行ってくれ」「そうか!じゃあ行ってくるよ!!」そうして母は出かけました。
すると皆さん方が、「遠藤さん、よくまあこの中を来ましたねえ。よう来ましたねえ」こう言って皆さんが言ってくださって、声をかけてくださったそうです。
そうして中には、「もう帰ったらいかんよ。しばらく普請のひのきしんを少しでもさせてもらってね(ちょうど今の神殿のご普請が始まっておりました)、一日でも長くおいてもらって、武子さんを助けるんですよ」と言ってくださる人もある。
「まあ、あんたがここにいて、もし万一のことがあったら世間がうるさい。早う帰ったほうがいいよ。12日の祭典が終わったら、早うお帰んなさい」皆さんがいろいろにおっしゃってくださる。母は、そうした中に何を定めたでしょうか。
本当は13日に帰って、もう自宅療養は不可能ということで、妹は病院に入院をすることになっていたんです。もうベッドも決まっていた。ところが13日に母は帰らない。そうしましたら15日くらいでしたねえ、おじ(母の実の弟)から、母宛てにハガキが届いたんです。
私の家のことでご苦労いただいておりますから、会長様がそのハガキをお読みになって私を呼ばれました。「お前のおじさんから、お母さん宛てにハガキが届いているよ。読んでごらん」と。
もう私は読まなくても、会長様のお言葉の様子から態度から分かりました。思わず、「会長様、申し訳ございません…」と言ったきりもう声が出ない。頭を下げて声出ません。
そうしたら、そのときに会長様がおっしゃいました。「僕もねえ、今度は関根先生はよう通れないだろうと、皆さんがじーっと眺めている中を、何くそー!こんな因縁に負けてなるもんかとして、いつもねえ、僕は笑って、因縁の中を通り抜けたよ。その僕が今、お前さんに話をするんだ。大事なことだからしっかり聞きなさいよ」とおっしゃった。
「世の中に、七転八起という言葉があるけれども、お道を通らせていただいても、前にも進むことができない、というて後ろに下がることもできない。右にも左にも行けない。あいているところは天に向かう道、お道しかないんだよ。お道しかあいていないんだよ」とおっしゃいましたねえ。
母はその前に、もう皆さんにおっしゃっていただいて心を決めたんです。「もし万一、私の誠真実が足りなくって、子どもを殺すようなことがあっても、私は三ヶ月と定め、修養科に行かせていただいたと思って三ヶ月、このご普請に徳を積ませていただきます。定めたことは断じて崩しません。たとえ子どもが出直しをしても、その亡骸は押し入れに入れといて、お定めが終わりまして帰りましてから、お葬式をさせていただきます」もう既に神様に定めさせていただいてあったのです。
そこへおじのハガキは何と書いてあったと思いますか。「お姉さん、あなたはそれでも人間の親か」と書いてあったんです。人間の親かと…。
「もう武子は余命幾ばくもない。今晩の命も分からない。やっとお話をして病院にベッドを空けていただいて、13日には入院する手はずになっていたものが、あなたは帰ってこない。一体どういうつもりなんだ。この手紙が着き次第、即刻帰ってくるように」ということなんです。「いかに会長様、生き神様のようだといえども、これだけの重体の病人を助けあげることは難しかろう。即刻帰ってこい」というハガキでございました。
(2)以上
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