徳を積ませて頂く事について(2)

 

 ですから、やっぱり皆さんね、この高い気分というのは誠に困ったものなのです。邪魔をしていく。

それを直していくために、布教所とか教会とか大教会とかあって、そういう最寄り最寄りのところへ行って、暇材して、お金使って、苦労させていただいて、神様の御用をさせていただいて、徳を積むことを教えていただいているわけなのです。

 

けれど、その徳も、ただ形だけ積んだってだめだとおっしゃった。低い心になって、させていただく。

だから、させていただいた徳っていうのは、ちゃんと皆さんのお家に帰っていくわけです。

ですから、家内だけの信仰のお家でも必ずご主人に道の入るように神様がはたらいてくださる。聞かなきゃならんように神様がはたらいてくれる。夫婦が聞いて子どもに信仰のないお宅は、子どもに神様が道を入れてくださいます。

それがこうやって、日々に心尽くした物種を神が確かに受け取っているということは、そういうことなんです。

自分が喜んでいちゃあ、だめなの。自分が喜べなくっても、神様が、ああご苦労さん、ようやってくれたねえって喜んでいただいたら、必ずこれは皆さんの後ろにあるところの家族・会社・社会上にちゃんとうつってくる。困らないんです。

ですから、皆さんを助けたいために、神様はお道に呼んでくださって、お話を聞かせてくださって、聞いたお話の中から、なるほどなあと思ったことを一つ持って帰って、ご家庭で実行していただかにゃあいけない。ここへ置いていっていただいてはいけないんです。

先ほどの、「雨が降ると低いところで水が溜まるように、お金も人も物も寄ってくるよ。これが分かったら、天理教は、楽しみで、楽しみで、やめられないよ。この教会には、数万の信者さんが今おられるけれども、僕は決して偉いぶっちゃいないよ。皆さんのいちばーん下に座らせていただいている。心の運び、心のおさめをして、断じて自分を許さない」とおっしゃいました。

ですから、びろうなお話ですけれども、私たちはおトイレに行きたくなったから入る。他のこと何にも考えないでしょう。けれど、会長様は、おトイレにお入りになるときでも、「神様、しばらくお許しください。今トイレに入れていただきます、しばらくお許しください。どこでどなたが、会長様助けてください助けてくださいと言って、教会を向いて手を合わせて拝んでいてくれるか分からない。僕が道の心の抜けたときには、せっかく頼ってこられても、その人を助けてあげることができない。さすれば、その人にも申し訳ない、ここなら助けてくれるだろうといって、呼んでくださった神様にも申し訳ないから、僕はトイレに入るときでも、断りを申し上げて入れていただくんだよ」と。

もうトイレがそのくらいですから、全て一事が万事でございます。つまりは、座っていて会長様は用をしていらっしゃった。そうして教えてくだされば分かりますね。黙っていらしたら、私たち凡人には分からない。そういうところが、会長様は人の真似のできないすばらしい方であるということです。

 

そんなスリッパひとつと言うけれど、一生、毎日、一日も欠かさず、自分のスリッパは言うまでもなく、人のスリッパでも揃えて通る心になったら、困ることなくなりますよ。

それを会長様が、「助かりたかったら、私の万分の一の真似をしておくれ」とおっしゃった。私の真似をしてくれじゃないの。「そんなことは皆にできないことは、誰よりも私がいちばんよく知っているから、私はそんな無理を言うてるんじゃないよ。万分の一の真似をしてくれたら、万分の一の徳がもらえる」とおっしゃった。

私は、「会長様、万分の一の徳ってどのくらいの大きさでしょうか?」ってお尋ねをしたことがございました。

そうしたら、会長様が、教えてくださいました。

「僕の万分の一の徳というのは、徳を積ませていただくということは、余った時間、余った身体、余った事情があったら、勝手なところへ持っていって使うのは後にして、神様の御用を先にさせてもらいなさい」

やっちゃいけないんじゃない、遊びに行っちゃいけないじゃない、温泉に行っちゃいけないんじゃあないんです。行かせてもらいたかったら、まず神様にお入りいただこうと思って、理立てをなさることです。そして、行かせていただいたら良い。

まあ理立てなんてもったいない、そんなお金があったら自分の欲しいもの買ってって言うけど、これじゃあやっぱり会長様の真似にならないですね。

じゃあ会長様、温泉に行かれたことなんて、長い年月のなかにわずかですよ。1回や2回、ご自分で行ったことはない。皆さんが「会長様行きましょう」って言うから、信者さんにやむにやまれず付いて行かれただけのことなの。ご自分で行かれたことなんて、いっぺんもございません。

なんで行かれなかったかというと、お金は余るほどあった。暇は持て余すぐらいあった。身体は丈夫でいらしたの。

けれども、「僕を頼って訪ねて来てくれた人が、私がいないとがっかりするだろう。それじゃあその方に申し訳ない、神様に申し訳ないからね、それで僕はどこへも行かない。お教会に座っているんだよ」と、こういうふうにおっしゃいました。

ですから、会長様―!って訪ねて来る人より、待っておられる会長様が、どれだけ皆さんのことを思いやってお待ちくださっているか分からないんです。

 

ですから、やっぱり皆さんね、おたすけの心を持たせていただく。おたすけといったら、「あんた聞きなさい!」と言ったら誰も聞きやしない。

「聞いてくださいませんか?私はこういうことで助かったんです。聞いてください」って言わなきゃ、人は耳を貸しません。聞きなさい!なんて言ったら、誰も聞く人はありません。だから、やっぱり相手の心を思いやる。

また、そのおたすけの心になる。

私は体験したことがございますけれど、自分がやってる、自分がやらなきゃあ回っていかない、自分が、自分が、と。

確かに事は成っていきますけれども、肝心なところでお仕込みを頂かなきゃならん事ができてくる。

こんなに一生懸命やっているのに…、なんで?なんで?と思ったときがございましたけれど、答えが出ました。

それは、こちらに“低い心”がない。

「させていただいている」っていうより、「やってやってる!」。私がやらなきゃあ事が成ってこないという高い気分と、人さんを思いやるという柔らかい心、つまり、おたすけの心が欠けているときには、誰も助けてくれません。

だんだんと分かってきて、人を思いやるという心、低い心になってくると、「ああまた遠藤さんこれ、会長様の御用でやっていて忘れている。会長様に見つかったら、またお仕込み頂かんならん。ああちょっと片付けといてあげましょう」って片付けてくださって、会長様にお仕込み頂かなくてもいいけど、自分がもう、やってやらなきゃ、やらなきゃあ!っていうと、自分だけの時間でしょう。人さんが助けてくださったら、人さんの時間も足すことができる。

それがないと、見ていても、「ああ、またあんな事してる。忘れているんだわ」って言って、時間があっても助けてくれないの。するとこっちは、「まあ…なんと薄情な人だろう。お道を聞いてるのに」とこう思っちゃう。

そうじゃないんです。自分が薄情な心を使っているから、人さんが薄情なことをして、「ごらん。こんなふうにいけないよ。お前さん優しい心になりなさい」と神様が教えてくださっている。

つまりね、助けていただけるのも、助けてもらえないのも、自分にあるということ。

自分はどんな心でいるかというと、つまり高―い気分でいるの。それじゃああなた、お金は寄ってこない、物は寄ってこない、人は寄ってこない。

だから、会長様を見せていただくと、おっしゃったとおり、「こういう人物が、教会に来てくれるといいなあ」って言うと、立派な会社に勤めていた方でも辞めて、「会長様使ってください」と言って来てくださる。私はこの眼でそういう事を、たくさん見せていただいた。なるほどなあ。

ああ今度こうしたいけれどなあ、教会にお金がない。けれど、ちゃんと余りも足りなくもない、それだけの事情がお供えという形によって、神様が信者さんに金儲けさせてくださる。儲かったらお教会へお供えさせていただこうという人には、神様、金儲けさせてくれます。

ああこんなに儲かったで、ああこれも神様、会長様のお陰だから、お供えさせていただこう、教会に運ばせてもらおう、そういう人にはどんどんご普請のときに、神様は儲けさせてくださったの。そういう人が運んでくださる。入り用なだけちゃんと余りも足りなくもなく、そういうふうだったの。

ですから、奉告祭のときに、親教会の会長様に、「会長様、安心してください」と、初代会長様がおっしゃいました。

何を安心してくださいかというと、「これだけの普請を致しましたけれども、教会には借金はございません。むしろ余っております」とこう言われたんです。

私は、御用をさせていただくなかに、そのお言葉を聞かせていただいたことが、耳から離れません。

「ところが、この教会は、お金が残っております。借金は1円の借金もございません」、「そうですかぁ。ああ良かったですなあ」って大教会長様がお返事をなさいました。私はこの耳で聞かせていただいた。会長様おっしゃったとおり。

 

その会長様がそうやって、桜が咲いても、「はあ、桜が咲いたかえ」とおっしゃって、じゃあ花見にちょっと行ってこようかなあなんておっしゃらない。

じゃあ晩年は、愛町の会長様は、まだ車に乗れない時代にお車に乗って、ベンツに乗ってお散歩に出られたでしょうって言うかもしれないけれど、散歩じゃないんです。会長様は、会長様なりにおたすけをなさっていた。

 

お供をして一宮というところへ、あるとき私は会長様のお供で車に乗せていただいて、「今日は一宮のほうへやっておくれ」とおっしゃった。「かしこまりました」と。

一宮というところは、たくさん信者さんのあるところです。

「じゃあここをね、一軒の家へ寄って一軒の家へ寄らんと、ああ会長様は、あそこは金持ちだからお寄りになったけれど、うちは貧乏だから寄ってもらえないって、信者さんが不足をすると気の毒だからね。今日はどこにも寄らないけれど、1時間ぐらい、一宮の町の中をぐるぐるぐるぐる回っておくれ」と、そう言っておっしゃったの。

「僕がこうして回っている間に、病のために、水一滴喉に入らない病人さんが急にぱっと目を開けて、ああ水が飲みたくなったと。どうせ助からないんだから飲ませておやり。飲んだら元気になっちゃった。お粥が食べたいと言い出す。店なら、もう商売がうまくいかない、もういよいよ今日は店じまいだという家が、なんだか知らないけど、人が買いに来てくれて買いに来てくれて、店じまいしなくなったという。今に教会に御礼に来るよ」とおっしゃった。「ああもういいだろう、さあ教会へ帰ろう」

お散歩じゃない。知らない方は、あぁまた今日も会長さんベンツに乗ってお散歩や、けっこうなことやなあと思うでしょうが、とんでもないことなの。お散歩じゃないの、おたすけにお出かけになるの。会長様は、晩年はそういうおたすけをなさった。

2〜3日経つと、「会長様、来ました!来ました!」、「何をお前さんそう慌てているんだい、何が来たんだえ」と会長様。「会長様、一宮から、御礼に信者さんがまいりましたあ!」

病人さんが元気になっちゃった。店じまいしようといったところが、皆さんが来てくださるので、この分なら店を畳まなくてもなんとかやっていける。ああ、ありがたい。

会長様がぐるぐる回って、1時間ぐるぐるぐるぐる回って歩いたことを聞かれたの。それで御礼に来ました。

「そうだろう。それが天理教だよ。これが天理教だよ」

そういう方なの。

 

私たちは、車に乗ればちょっとドライブして、あああそこがいいねえ、ああここはいいってやりますけど、会長様はそういうことはなさらない。

走っていても、窓の外に気の毒な人を見ると、「ああ…かわいそうになあ、なんとかしてあの人間を助けてあげることができないだろうか」と。

ずうっと昔、山のほうへ行かれたときに、母親が2人の子どもを連れて歩いていた、山道を。普通そんなところ歩くところじゃないの。

それを見かけた会長様が、「車をちょっと止めておくれ」と。会長様に理がうつったんですね。これは親子が死のうと思っている。子どもは分からないけれど、子どもを連れて死のうと思って山の中へ入って行くんだなって、会長様に理がうつったの。

呼び止めて車の中に入れてあげて、子どもにお菓子を与えて、お母さんに、「死んじゃいけませんよ。命あっての物種。どうしても困った事ができたら、私はこうこうこういうところに居るから、私を頼っていらっしゃい。生きるんですよ」、そう言ってね、子どもにもお小遣いをあげ、親にもいくばくのお金をあげて、お別れをして。

しばらくして、このお母さんが子どもを連れて教会にまいりました。それから、このお母さんはお道の信仰に入られて、親子心中をせんならんところをせずに助かった。けっこうになられた。

お散歩して歩いてもそうなんです。

いつもお散歩のお供は、喜多先生が行かれたの。いつも喜多先生は、カンカン(空き缶)を持っていた。

あるとき、「ほら、ほら喜多、そこに釘が落ちているよ」、「はい!」って言って、喜多さん、釘をこうカンカンに入れる。「子どもが裸足で歩いたら怪我をするだろう。かわいそうだからね」

あるとき、新聞配達をしている少年があった。それに出会ったんですね。自転車が壊れちゃって、困っていたの。喜多さんに言われて、子どもさんに聞いて、家まで自転車を担いで送り届けたこともある、お散歩の途中で。こういうふうに会長様はおたすけなさったの、晩年では。

ですから、皆さんね、いかにも形だけを見て、ああベンツにお乗りになって、皆が行ってらっしゃいませ、会長様はけっこうだなあと知らない方は思うけど、何もけっこうじゃない。そうやって、常に人さんに助かってもらいたい。お道があるないにかかわらず。

 

だから、いつもお車でお出ましの際は(いつもって毎日のことだけど)、私たちは御用が終わると、空き箱にね、飴玉やら何かお菓子を、子どもの喜びそうなお菓子を袋に詰めて、10とか15とか詰めて、そしてまあお金も当時のことですから50円とか100円とか、小さい封筒に入れて、そして会長様お持ちになるの。

今は広場で遊ぶ子どもがないですが、当時は広場でみんな子どもたち遊んでいた。

「ちょっとここで車を停めておくれ」とおっしゃってね、「さあみんな、嬢ちゃんも、坊やもおいで」と、そうしてお小遣いあげて、飴をあげる。

それはただ飴をあげているんじゃない、お小遣いをあげているんじゃない、いずれお道を聞いておくれよといって、お気持ちですよ。

ある子どもさんが、お母さんに見咎められて、「お前、このお金どうしたんだ」、誰かから盗んだと思って「こんなお金を持っています」って警察へ行ったら、そうしたら警察官が、「坊や、どんな人からもらったの?」って言ったら、会長様のことだなと。

「ああ、その方なら、愛町分教会の会長さんですから、そうやって広場へ行かれると車を停められて、子どもさんにお菓子やらお小遣いやらくださっているんです。お母さん、心配はありませんよ」って言ってくださった。そんな逸話も残っているくらいなの。

((3)へ続く)

 

(2)以上

 

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