雪の日のお話

 

 たいへん雪が降った日がございまして、会長様は歯医者にお出かけになるご予定でございました。

 

まだ当時は、お教会にも、会長様にご利用いただく車などございませんでした。

しかし、初代会長様が、この春岡の町内のことについて、区役所のほうからお声がかかりますと、いつもお断りになることがなくお受けになってお通りになったということで、たまたま区役所で区長さん専用の自家用車をお買いになり、その車について区長さんが「使っていない時は、関根先生、遠慮なくお使いになってください」とこう言われておったんですね。

(ですけれども、考えてみると、会長様はあまりお使いになりませんでした)

 

その日は、今は雪は降っていないけど、昼頃になったら雪が降るということでございました。

区役所のほうへお願いを致しましたら、ちょうどそのとき都合が悪くて、車を貸していただけなかった。

けれども、お帰りになる頃のお時間には車は大丈夫ありますからと、親奥様が私にね、「用が終わったら必ず教会に電話をかけてきなさいよ。そして、待ってていただいて、その車にお乗りになって帰ってきてくださいね」とおっしゃっていただいた。

私は「分かりました」と言って、お出かけのときは歩いてですね、曙町まで出ましたかねえ…。そして市電に乗って、桜山まで行かれるわけなんです。

 

ところが、その日に限って、なかなか電車が来ない。

来ないけれども、待っているうちに、ポツポツと白いものが降ってまいりました。

そして、電車に乗りましたら、ポッポ、ポッポと雪が降りだしたんですね。

会長様は、電車の窓から外をご覧になって、「見てごらん。こんなに雪が降って寒い。人は皆、おこたに入って温まっているのにね、こうして寒い日でも働かなければ生活が成り立っていかない人もいる。ああそれをみたら結構だねえ」とこんなふうにおっしゃった。

私なら、車に乗って行こうと思ったのに具合が悪くって嫌になっちゃうなあと、言葉に出さなくても、腹の中でムセムセするところでございますけれども、会長様は「ああ神様はこうやってね、電車に乗せていただいて行かせていただくことができる。ああ神様はありがたいねえ」と、こうおっしゃるんですね。

 

私たちはなんでも、良いことでもいつも悪く悪く解釈をしてまいります。

喜びなさいと人さんには言いますが、さて自分では、事にあたると、自分の思う通り事が運んでまいりませんと、悪く悪く解釈をする。

ところが、会長様は、悪いことでも良いほうに解釈して「神様ありがたいねえ」とおっしゃるんですね。

ああこれは本当に、私たちも真似て通らなきゃいけない。万事がそうなんです。

朝目が覚めて、夜休ませていただくなかに、いつもそうやって、お風呂にお入りになれば、「ああ、ありがたいね。神様ありがとうございます」と言って、こう手を合わせてね、お入りになる。

ですから、お話はそれますけれども、お風呂にお入りになる会長様が徳を積まれて、お風呂を沸かす青年が因縁を積んでいることもままございます。

それを初代の会長様が、「教会というところは、ただやれば良い、すれば良いというところではないよ。僕は、働き人(はたらきど)はおいてないよ」とおっしゃった。

この意味がね、私どもも徳がございませんから、なかなか理解ができませんでした。

お言葉でございますけれども、私どもが右・左と動かなかったら、なにも事が運んでいかないじゃないですかと、こう腹の中で思うけれども、会長様は「ここは働くところではない」とおっしゃった。「僕は、働き人(はたらきど)はおいてないよ」とおっしゃる。

「僕は神様という理に勤めている。お前さんたちは、僕という会長に勤めていくんだよ。ここは働くところではない」とおっしゃる。

その意味がね、本当に長らく理解ができませんでした。

ですから、会長様が「一体お前さんたちは、いつになったら天理教をやるんだえ」とおっしゃった。

はあ、天理教をやっているから、こうしてお教会に入り込みをさせていただいて、勝手を慎んで、朝から晩までテンツクテンツク、右・左と動かさせていただいて、神さんに喜んでもらおう、会長さんに喜んでもらおうと、通らせてもらっているんだけどなあ…。会長様から見たら、私たちは天理教をやってないのかと、わけが分からなくなるときがよくございました。

それはね、会長様の言葉を、頭で聞いて、頭で解釈をしていたんですね。

 

でも、一つ一つ、教えていただいたことをお受けをさせていただいて、日常生活の中に実行に移して通らせていただくなかに、少しずつ徳ができてまいります。徳がそなわってまいりますと、ああなるほど、こういうことだったのかと。

会長様が、「お前さんたちはいつになったら天理教をやるんだえ。まあそれぐらい社会で働いたら、使っているご主人が随分と喜んでくださる。けれども、ここは働くところではない。神様という、教祖(おやさま)という理に、勤めていくところだよ」と。お言葉は簡単ですがね、その意味というのは、まことに深いものであったと思いますね。

そういうふうにして、初代の会長様は、心の運びかた、心のおさめかた、もちろん形もそなわっていかなければいけませんが、自分と神様しか知らない、あるいは、うっかりしていると自分も気がつかない心の運び間違いを、一つ一つ事細かに、日常生活の中に教えていただきました。

 

そうして、お話は元へ戻しますが、治療が終わりました。

「会長様ちょっとお待ちください。いま、お教会へ電話をかけさせていただきますが」と申し上げたら、「もういいんだよ、もういいんだよ」とおっしゃってね、お帰りも電車に乗ってお帰りをいただいて、「まあ遠藤さん、私が言ったでしょう」と言って、奥様からお叱りをいただいたことがございますけれども、

そういうふうで会長様は、自然に間に合えばそれも神様、間に合わなかった場合には、それも神様としてですね、成ってくることは喜べることも喜べないこともみんなこれは神様の思惑として、それをいかにして不足をして受けるか、喜んで受けさせてもらうか、この違いなんですね。

会長様は、「不足をすると、ものが腐るよ」とおっしゃった。「喜ぶとね、倍、倍と、ものが増えていくよ」とおっしゃった。

 「このお道を通らせていただいているとね、お金の入り用なときにはお金を、物の入り用なときには物を、人の入り用なときには人をお与えくださる。それも半年も一年も前からじゃないよ。三日前のご守護だよ」とおっしゃった。

 

初代の会長様のご日常をみせていただくと、なるほど、おっしゃることに間違いないということは、もう数々みせていただいてまいりました。

 

以上

 

※恐れ入りますが、お話の転載を一切禁止いたします(YouTube含む)

本文中に、適切ではない言葉を使用している場合がございますが、お言葉等の意味合いが変わってしまうため、そのまま掲載をさせていただいております。何とぞご了承ください。